水曜日, 3月 22, 2017

今、作りたい音楽とは―。|坂本龍一

坂本龍一という名前の隣に、音楽家、という3文字の肩書がついているのを見るにつけ、何かうまく表現できない、ちょっとした違和感を感じてきた。確かに音楽を作る人である。けれど坂本(以下敬称略)がスタジオで録音したり、ライブ演奏をしている以外の時間の活動が、肩書に入らないことにはなんとなく釈然としなかったからだ。
けれど仕方がない。肩書とは、きっと最大公約数の人々がもつその人物への認識を表現するものなのだろうから。

2014年7月にがんを患ったことを発表し、1年間の闘病生活を経て仕事に復帰した坂本に、最後に話を聞いたのは、自分の音楽レーベル〈commmons〉の10周年を記念して開催したイベント〈健康音楽〉の前後だった。
病気をしたことで、「自分に残された時間」について考えるようになったという坂本は、「40年の活動期間で作れていない『人生の宿題』になっているような、音楽がある。これぞ坂本だというような作品を作りたい」と次作への意欲を示していた。そしてこれからは、なるべく音楽に集中する、とも言った。

原発などをめぐるエネルギー問題、環境問題や政治、時事に関するポストのみならず、人類学、歴史、文化、音楽、ダンスなどの幅広いトピックスについてのソーシャル・メディアのポストを楽しみにしてはいたけれど、一方で、どこにそんな時間があるのだろう?と不思議だったので納得もした。実際、坂本のオンラインの発言は〈健康音楽〉のあとから激減した。

この9月、マンハッタンの音楽スタジオで話をしてくれた坂本は、数カ月前に語ったことを繰り返した。「今年の残る時間は、アルバムの完成目指して、集中してやりたい。計画しているとおり来年の春に発売できたとして、8年ぶりのアルバムになります。ということは10年に1枚くらいのペースになってしまってる。それじゃダメなんですよ」

ダメなんですか?とついオウム返しをしてしまったのは、その8年間がただ漫然と過ごされたものでないことは周知の事実だからだ。

前作『アウト・オブ・ノイズ』を2009年に発表してから、ライブ活動はもちろんのこと、ライブアルバムは複数枚出しているし、数えきれないほどの楽曲を他者に提供してきた。

闘病からの復帰後だけでも山田洋次監督の『母と暮せば』(’15)、多数の音楽賞にノミネートされた『レヴェナント:蘇えりし者』、この9月中旬に公開された李相日監督の『怒り』と3作の映画音楽を手がけた。中沢新一、竹村真一、鈴木邦男といった人たちとの対話を書籍という形にし、2013年の山口情報芸術センターの10周年記念祭、2014年札幌国際芸術祭ではともにディレクターを務め、〈more trees〉やその他の活動を通じての環境運動にも積極的に参加し、東北地方の子どもたちが参加する〈東北ユースオーケストラ〉(http://tohoku-youth-orchestra.org/)で指揮を執っているのである。

「音楽家」ということであれば8年に1枚という頻度は「ダメ」ということになるかもしれない。でも!と思った裏には自分勝手な私情があった。

アルバムを制作するために、オンラインでの発信を減らす坂本に対し「もっと発信してほしい」という自分勝手な欲求もあったかもしれない。ネットのとげとげしい雰囲気に、意見を表明することに加速度的に腰がひけてきている自分をふがいなく感じながら、ことあるごとに「音楽家のくせに」と理不尽な批判にあっても、一市民として、不正義と感じることには恐れずに異議を表明する坂本のポストに、溜飲を下げていたのかもしれない。
自分にとっての坂本龍一という人は「音楽家」にとどまらない発信者だったのだ。








「マスクして、怪しい感じで、人の波と反対に歩きながらね。行き交う人の会話や足音が通りすぎていく感じがおもしろいんです。こういうことは現代音楽の分野には昔からあって、もちろん知識としては知っていたけれど、なまの欲望としておもしろいと思うようになった」






環境問題に強い関心をもち、また社会のあり方について発言を続けてきた坂本が、氷河の音や雑踏の音を作品に取り入れるようになったことには、つい因果関係を見いだしたくなる。

それを追求すると「自分でもよくわからない」という答えが返ってきた。

きっかけは2000年頃に始まったドイツ人アーティスト、アルヴァ・ノトとのコラボレーションだった。「僕が録ったピアノの音という素材を、彼が料理するという作業のなかで、ピアノという楽器の音と、そうではない現実音の差がなくなってきた。
僕らが音楽の世界で使うS/N(サウンドvs.ノイズ)という言葉があるように、サウンドとノイズは本来なら二項対立なんです。でも僕のなかでだんだん区別がなくなってきた。それどころかもっと原初的なノイズに寄りたいという気持ちが強くなってきてしまったんですよね」

話を聞き進めるうちに、サウンドを発する道具として人間が考案した調律に合わせて作られた楽器よりも「音楽に加工される以前の音」に興味と関心が移ってきた理由が少し見えてきた。「楽器は西洋音楽をより明確に表すために、合理的にデザインされて今の形に進化したわけですが、もともとは木や鉄、動物の革だったりした。

たとえばピアノは最も近代的に設計された楽器ですが、木と金属でできていて、放っておくと調律が狂ってくる。
調律というものは、人間が勝手に決めた、人間にとってのいい音を出す作業ですよね。
物は強制的に引っ張られる状態を嫌って、原初的な状態に戻ろうとするわけです。
チェロやヴァイオリンの弦が切れたりするのは、物が元の状態に戻ろうとするあらわれなんです」

その他の活動をトーンダウンして作っている新作は、『アウト・オブ・ノイズ』の延長線上にある、と坂本は語る。「前作ではたとえば北極圏まで出かけていって、グリーンランドの氷河の音を録ったりもしました。体験自体も新鮮でしたけど、録った音もとてもおもしろかった。以来、ますます既存の音楽のかたちから遠ざかりたい、物が発する音をもっと楽しみたい、という方向になってきている。だからドラを買って傷つけて音を出してみたり、通勤時間帯の新宿駅の南口に行って、雑踏の音を録ったりしている。

その後、坂本は「強く意識しているわけではないし、新しい文明論を語りたいわけではないんだけど」と前置きしたうえで、津波が起きたあとの宮城県で弾いたピアノの話を教えてくれた。「海水に浸かってボロボロなんです。出ない音もあるし、調子はずれだし、でも僕は自然が調律したんだと思った。人間が無理やり調律した音階を自然が壊して自然の調律に戻したと。いい音だ、とても貴重だと思ったんです。意図的にはできないわけですから」





すらすらとかける太芯のシャープペンシルと消しゴム。モレ スキンの小型の五線譜手帳は外出用。下は外出時に必 ず持って出かけるというスマートフォン用のマイク。 噴水の音、子どもたちの声など、気になる環境音をい つでもどこでも録音できるように。「マスクをして人の波に逆らいながら録音している。部長の悪口を言ってるOLの会話や人の足音がおもしろく聞こえるんですよ」



抽象的でもあり、プリミティブ(原始的)でもある、人間が楽器を使って作り出せない音。新作で追求しているのはそれだ。けれどアウトプットのかたちにはまだ悩んでいる。「けれど僕がいいと思って録音した新宿駅の雑踏の音の、どこからどこまでが坂本の作品なんだという問題が出てくる。どう音楽として楽しんでもらえるかたちに落とし込むか、そのさじ加減に頭を使っているところです。自然の中を自分が歩くなかで録る音は、自分にとってはいい感じですが、音楽なの?という人もいるだろうし、ただ音を楽しめるなら音楽と言えるのかもしれないし……」

坂本はここで言葉を切った。

「音楽であるかどうかは、もうどうでもいいことなのかもしれない」

この言葉に、以前からずっと気になっていて、今日は聞こうと思っていた質問をぶつけた。
「そもそもなんで音楽だったんですか?」と。

父親は編集者で、母親は帽子デザイナーだった。社会科学から人類学、科学にまで広がる坂本の広い見識から、ほかにも選ぶことができたであろう多数の表現方法のなかから、音楽を選びとった理由を知りたかった。

「その答えははっきりあって、交通事故のようにYMOが売れちゃったからです。そんなつもりなくYMOに参加したのに、急に有名になっちゃって、自分としてもミュージシャンだと認めざるをえないってことになったんです。それまでは、何にもなりたくないというか、職業を限定されるのが嫌だと思っていた。小学校の低学年の頃から、なりたい職業を聞かれると『ない』って答えてました。何かに所属するのが嫌だったんでしょうね」

何ものにもなりたくなかった坂本は、交通事故のようなきっかけを経て、27歳で「音楽家」になり、海外に頻繁に出るようになった。そして1990年にニューヨークに拠点を移し、以来、ライブや録音のために頻繁に日本との往復を続けてきたとはいえ、20年以上の月日をおもにこの街で暮らしてきた。
若い頃は、否定しがちだった日本の古典的な文化に対する態度もシフトしてきた。

「僕らの世代にとっては、日本の文化は戦前のナショナリズムの象徴だった。学生時代は尺八や琵琶を採り入れた武満徹さんに反発して、ビラを書いたりもしましたから(笑)。最近は海外に住んでいるからなのか年のせいなのか、古典芸能や工芸といった日本独自の文化にもだんだん関心が強くなってきて……。まったく縁がなかった能や雅楽も聴くようになってきました。

能の世界にいる人たちと知り合って、となると恥ずかしいから勉強もするし、おもしろいから 興味が尽きない。今年は、奈良県にある能の発祥の地を訪ねたんですが、能ができた過程をたどっていくと、縄文文化、つまり僕らの根源的なルーツまでたどれてしまうし、浄瑠璃や歌舞伎との関係性もわかってきて、長い日本の音楽の歴史が少し見渡せるようになってくるんですね」


興味のシフトといえば、学生時代から好きで、唯一全集を持っている夏目漱石を、今また読み返している。「学生時代は『こころ』『明暗』と暗くて深いものが好きだったけれど、おもしろいと思えるところが今は全然違う。

『草枕』なんてそのいい例で、何も起きないし、ドラマも何もない。峠のほうに旅にいって、宿屋に泊まったって話で、一枚の山水画のようで、でもそれがいい」








今年いっぱいで残された時間は新作に費やす、と言いながら、長期的なプロジェクトもいくつか抱えている。そのひとつが〈フォレスト・シンフォニー〉だ。木の生体電位を測定し、そのデータをもとに音を作るというプロジェクトで、2013年の山口情報芸術センターの10周年記念祭、札幌国際芸術祭でも行なった。「スポンサーがいなくて実現していないんですが、建築家の坂茂(ばん しげる)さんとも計画中のプロジェクトがある。そのほかにもやりたいインスタレーションが山ほどあるけれど、自分ひとりでは実現しないし、とにかく時間が足りない」

もうひとつやり続けているのが震災後に始まった〈東北ユースオーケストラ〉だ。
「もう意地みたいなもんですよね。社会がどんどん忘れているみたいじゃないですか、震災があったということを。5年以上たっていまだに仮設に住んでいる人がいる。原発の付近には故郷に帰れない人が何万人もいて、その一方でオリンピックとか言ってる。僕には信じられない。けれどネガティブに批判するんじゃなくて、ポジティブなかたちでこたえたいと思っています」


日本は育った故郷でもあり、活動の場でもある。同時にアウトサイダーとしての視点でも見ている。
「戦後70年以上がたってもいまだにアイデンティティを保持していないように思えるし、戦前と変わっていない面と両方ある。特にね、自己主張をしない、声をあげない、上に逆らわないという国民性は気になる。国民主権ということは、主人は国民ひとりひとりなんだよと、これを自覚できないと民主主義が根づいたことにはならないよね」






日常的に使っているグッズを見せてほしい、というリクエストにこたえてくれた。左はお香のセ ット。京都の松榮堂のお香を好んで使っている。作曲するときに焚くこともあるし、ライブ時にもステージ脇で香りを焚いてから演奏に挑む。スタジオに入る前、ブレイク時には、お茶やコー ヒーを自分で淹れる。お湯の温度や蒸らし時間まで、おいしくするための努力は惜しまない。







こういう話をしながら、やっぱり坂本の音楽家という肩書に感じる違和感をまた思い出した。
「音楽活動っていうよりも、人間活動っていうほうが、坂本さんにはしっくりきませんか?」と。

「そうかもしれないね。音楽家だけど、余計な口を出してしまうから。音楽家は音楽だけやっていろ、とインターネットで言われているらしいということも知っています。

これは言わないと、というときだけ選んでいるつもりですけれど、発言するから偉いとも思ってません。でも音楽だけやればいいとも思わない。普通の人が口出すのが民主主義でしょ。職業に関係なく誰もが声を出せる社会じゃないとダメだと思うんです」









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