木曜日, 8月 11, 2016

鶴瓶のスケベ学|21_24

 

鶴瓶のスケベ学|21


人間が好きじゃないタモリと、“いま生きてる人”が大事な鶴瓶


鶴瓶さんが「テレビの師匠」と呼び、長年にわたり慕ってきた人物がいます。タモリさんです。毎週木曜日、『笑っていいとも!』の生放送でテレビの醍醐味を届けてきた2人は、互いに深い信頼と尊敬の念で結ばれていました。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

「俺、聞いたんやけど『いいとも!』終わるってホンマ?」※1
 
30年以上続いた『笑っていいとも!』の終了を発表するきっかけを作るという大役を担ったのは笑福亭鶴瓶だった。

「来年の3月で『いいとも!』終わる」

タモリが淡々とした調子で答えると、観客はもちろん、出演者たちも驚きの声をあげた。それもそのはず。その時、このことを知っていたのは舞台上ではタモリ本人と笑福亭鶴瓶、そして中居正広だけだった。番組のプロデューサーですら、当日それを知ったという。ごく限られたフジテレビの上層部とタモリの話し合いで決められたものだったらしい。

鶴瓶が番組の終了を知らされたのは、発表の前日だった。タモリから直接電話があり、「火曜日に発表するからきてくれ」と告げられたという。
鶴瓶がレギュラーを務めていた木曜日ではなく、火曜日にわざわざ“乱入”させて発表したのは、意味がないわけはないだろう。
もちろん、タモリが大事にしている生放送のハプニング性を“乱入”という形で演出するということが一点。そして、何より、タモリの笑福亭鶴瓶に対する信頼と仁義があったのだろう。



東京進出の足がかりとなった いいともレギュラー

鶴瓶とタモリを最初に繋げたのは、意外な人物だった。

「ものすごくおもしろい人がいる」※2
 
そんな一言を添えて若き日の鶴瓶のもとに一本のカセットテープが送られてきた。
送り主は井上陽水である。そこには『タモリのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)が録音されていた。

鶴瓶は、そのテープを再生すると、そのおもしろさに驚愕した。すぐに鶴瓶は、自身のラジオ番組のゲストに呼んだのだ。まだお互いに一般的には無名の存在の頃だ。
その後、2人はまったく別の道に進む。


タモリはカルト芸人から一転、『笑っていいとも!』に抜擢され、日本のお昼の顔に。
鶴瓶は、東京で局部露出事件を起こし、大阪に帰って、大阪ローカルのカリスマに。
 
だが、1987年、2人は再び交わることになった。
前年に東京再進出した鶴瓶だが、ビートたけしの裏番組に敗れる形で、「東京進出失敗」の烙印を押されかけていた。それを早くから予測していた人物がいる。『笑っていいとも!』のプロデューサーだった横澤彪である。彼はタモリにこう持ちかけた。

「笑福亭鶴瓶という、関西では圧倒的な人気を持つ男が東京に進出してきます。で、これが多分失敗します。そこで『いいとも!』に入れたいと思っています」※3
 
そしてその目論見通り、87年にレギュラーに抜擢したのだ。

鶴瓶にとって『いいとも!』の存在は大きかった。大阪での地位そのままに、明石家さんま(金曜)や所ジョージ(水曜)、片岡鶴太郎(火曜)らと肩を並べる木曜日の“曜日リーダー”的立場で出演し、存在感を高めていった。翌年にはそれまで関西ローカルだった『パペポTV』が全国ネットに。
このふたつの番組によって笑福亭鶴瓶という存在が認知され、その芸風も理解されたといえるだろう。

ちなみに知名度という点だけにおいては、東京進出直前の85年から放映されていたユニ・チャームの生理用品「ソフィー」のテレビCMで、「お月さん」として出演したことによって広がっていった。

『いいとも』レギュラー加入の翌年に放送された2回目の“フジテレビ版「24時間テレビ」”である『1億人のテレビ夢列島'88』には、早くもタモリとともに総合司会を務めた。そのことからも、『いいとも』とタモリが、鶴瓶の東京での浸透に大きな役割を果たしたことがわかるだろう。

 

鶴瓶のいいとも!降板を引き止めたタモリ

鶴瓶はタモリを「テレビの師匠」だと言う。※4
実は、レギュラーになって10年近く経った頃、鶴瓶は『いいとも!』降板を申し出たことがあった。様々な理由があったが、所ジョージ、さんま、鶴太郎といった同世代の盟友たちが番組を去ったこともそのひとつだった。自分も身を引いたほうがいいと思ったのだ。スタッフも了承し、4月に卒業という形で決まっていた。

それを聞いたタモリは、鶴瓶を呑みに誘った。
そこで鶴瓶は正式に『いいとも!』降板の報告をするとタモリが珍しく強い調子で言った。

「ダメだよ」
 
鶴瓶にはその頃、自分自身の現状にモヤモヤしていた。日本全国で認知こそされてはいるが、自分自身の芸風が確立されているわけではない。もっと自分らしいテレビの出方が東京でもできるはずだ。
そのためには『いいとも!』を辞め、退路を断たなければならない。そうすれば、もっと自由に自分自身を出せるかもしれない。そんな思いがあったのだろう。

だが、そんな鶴瓶にタモリは言った。
「あなたね、『いいとも!』はね、ジャブが効いてくるよ。あなた絶対やっときなさいよ」※4
 
そのアドバイスに従い、鶴瓶は『いいとも!』レギュラーを継続したのだ。
タモリが、そんな風に共演者を慰留することはほとんどない。タモリにとって鶴瓶は特別な存在だったのだろう。

「鶴瓶は歳が近いこともあって、共感する部分も多いし、話も楽」「若い頃に観てきたものも、ちょっとした古いギャグも共有できているし、安心感もある。たくさん話すわけじゃなくても、一番分かり合えている」と語り、こう評している。

「彼は人間としての芯というか、男気みたいなものを持っている。だからちゃんと話せますよね。
話っていうのは、そこを認めていないとどうしても上滑りというか、『この人にはここまで言っても分かんないだろうし、話す必要もないだろう』ってことになるんですよ。でも彼とはそれがまったくない」※3



『いいとも!』などでよく見かけた光景のひとつに、鶴瓶が何か身振り手振りで熱っぽく語っている最中に、タモリが「目、細いね?」などと、まったく脈絡のないフリを挟むというようなやりとりがある。

「なんでそんないらんことするん?」と鶴瓶は尋ねるとタモリはこう答えたという。
「放っておいても絶対笑わせられるのはわかってる。みんな笑わせるセオリーを持ってるから、そこでわざと無理難題を吹っかけてみると、次の笑いを求めようとして新鮮なものが見られる。これが、マンネリ化を防いでる」※5
 
タモリは、セオリー通りになりそうな空気を感じた時、そこに予期せぬフリを入れることでハプニングを誘発させ、予定“不”調和な空間を作る。それこそが「いま」を映すテレビの醍醐味なのだ。

鶴瓶はそんなタモリと共演を続けたことで「テレビというのはのぞき穴みたいなもの」だと確信した。

「こうしたら笑いが取れるだろうというセオリー通りのものは面白くない。テレビは完成された芸を見せるのに適さないです。完成された芸というのは時間と空間を共有して、生で見せるものですから。テレビはセオリーにないことが起こった方が面白い。
だからボクはセオリーを崩そうと思います。そういうことを続けると、相手も自分の邪魔をしてくるようになる。すると自分の中でわからない変化が生じて、全然違う自分が発見できるんです。それがまた楽しい」※5

 

興味の対象が正反対のふたり

そうしたテレビの即興性を大事にする考え方はそっくりだが、彼らの興味の対象は正反対だ。

『家族に乾杯』と『ブラタモリ』(ともにNHK総合)の違いはそれを浮き彫りにしている。

番組がコラボレーションし、同じ場所に訪れたときも、「同じようにブラブラしているようで全く違う番組なんですよ。アナタ(鶴瓶)の方は水平の番組で、こっちは垂直の番組」※6とタモリが言うように、2人はまったく別の方向へと進んでいった。

タモリは街の歴史や地形の変遷などに興味を示し、鶴瓶はそこにいま住んでいる人たちをフォーカスしていく。

僕は死んでる人よりも生きてる人の方が大事やねん。だから、この人がここで死んだとはどうでもいいわけ。“この人が今面白い”ということが大事。それと、何か大それたことをしてスポットが当たる人よりも、そうじゃない人。例えば、その人が姑さんのために一生懸命に何かをしてるとか、そういうことにスポットを当ててあげることがすごい大事」※7
 
タモリも、『家族に乾杯』などでの鶴瓶の一般の人たちへの接し方に対し、「彼は人間が大きい」と語っている。

「人を見る眼差しが優しい。だから人にスッと入っていける。僕は人間がちっちゃいし、どちらかと言うと軽く人間が好きじゃない(笑)。(略)だから本当に全体的な人間力で彼には勝てないなと思いますよ」※3
 
一方、鶴瓶はタモリの印象をこのように語っている。

「テレビで知りおうたけど、普段も普通にいれるんですよ、変わった人ですよ、あの人」※8
 
テレビの中でも、日常生活でも「普通」だと言うのだ。
ビートたけしや明石家さんまは、会うときいまだに緊張するという。しかし、タモリだけは緊張しない。
それは普段もテレビも変わらず「普通」のままだからだ。

そんなことは普通ではあり得ない。
「普通の普通は狂気」※9なのだ。

思えば、鶴瓶もそうだ。
相手に緊張させず、普通のままテレビに出ている。
けれど、そんな鶴瓶も最初はそうではなかった。
「いかに自然にしゃべるかっていうのを目指してやってきた」という鶴瓶。ラジオではそれは早々に実現した。だが、テレビではなかなかうまく行かなかった。

「テレビはあかんかった。ラジオは良かったけどね。だからラジオみたいにしゃべれるテレビはないかな?ってずっと思ってた」※10
 
テレビの中で「普通」のまま「自然」にしゃべること。
そのやり方を鶴瓶は「テレビの師匠」であるタモリを間近で見ることで学んだのではないだろうか。
『いいとも!』「グランドフィナーレ」のスピーチで鶴瓶はタモリを「芸人にとって港みたい人」と喩えた。その真意を自身のラジオでこう語っている。

「(明石家)さんま、ビートたけしは、今でもテレビで攻めてるんですよね。タモリさんは、遊んでるんですよ。いつまでも遊んでる。だから、芸人じゃないんですね。だから、(港のように)寄れるんです。芸人を一番わかってる素人のおじさんなんですね。遊んでるんです。本当は芸人よりもスゴい人だと思いますよ。だから、僕らも相談……というか、何かあったら感じてくれるんでしょうね」※11

 

千秋楽に現れた不審な男


2015年、鶴瓶は新作落語「山名屋浦里(やまなやうらざと)」を完成させた。

これは『ブラタモリ』で吉原を訪れたタモリが知った、ある花魁と武士の実話を落語にするように鶴瓶に提案したものだ。つまり原案がタモリの落語だ。
毎年行っている鶴瓶の落語独演会でも完成後は当然、この噺を披露していた。

「あの人、この話をオレに“やって”と言ったのに、この落語会に1回も来てないんですよ。ホンマ、どういうことや!」

赤坂ACTシアターで行われた2015年落語会の最終日(11月8日)、オープニングのトークでそう言って笑わせていた鶴瓶。公演の最後、「山名屋浦里」を披露し幕を下ろそうとしたその時、客席から不審な男が舞台に向かって歩いてきた。

「なんかあったら嫌やな」※12
 
うろたえる鶴瓶の前にあらわれたその男は、花束を持ったタモリだった。
タモリは鶴瓶の落語会に“乱入”したのだ。

ぱっとタモリの顔を見た瞬間、鶴瓶は泣きそうになったという。

「よかったよ」

そう囁くタモリに鶴瓶は胸いっぱいになって、その花束を受け取った。

「なんや、この花束! 菊やないか! オレ、死んだみたいやないか!」※13



※1 『笑っていいとも!』13年10月22日
※2 『週刊プレイボーイ』07年7月30日号
※3 『Switch』09年7月号
※4 『FNS27時間テレビ』12年7月22日
※5 笑福亭鶴瓶公式サイト「つるべ.net」
※6 『ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 2017初詣スペシャル』17年1月2日
※7 『SWITCH』10年8月号
※8 『チマタの噺』15年9月22日
※9 『AーStudio』11年1月21日
※10 『チマタの噺』16年3月22日
※11 『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』14年04月06日

※12 『週刊朝日』16年1月1・8日号
※13 週刊女性15年12月8日号








鶴瓶のスケベ学|22


タモリ・原案、鶴瓶・原作の歌舞伎を演じた中村屋との縁


50歳を過ぎた頃、落語に回帰し始めた鶴瓶さん。しかしある大事な舞台で不甲斐ない落語をしてしまいます。そんな心が折れそうなとき、背中を押してくれたのが、お互いを本名で呼び合う“親友”、中村勘三郎さんでした。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

星野源は驚いた。

トイレに行って戻ろうとしたら、反対側から笑福亭鶴瓶が歩いてきたのだ。
周囲の人に気づかれて騒ぎにならないように、体を小さく丸めて歩いているが明らかに「ツルベ」。目立っていた。

星野は鶴瓶の肩を叩くと、ビクっとした鶴瓶は小さな声で「なんですの?」と答える。
「源です」 マスクを取って言うと、「ああ!」とようやく気づいたが、「お前、マスク上げとき。大変なことになるで」と言う。
確かに。と思った星野だが心の中で「あんた、そんなちっちゃく歩いてくるんだったら、マスクしろよ!」とツッコんだ。

そこは超満員の歌舞伎座。人がごった返していた。
星野源は席に座るとまた驚いた。
自分の斜め前に鶴瓶の隣に座っていたのがタモリだったのだ。



タモリが思いつき、鶴瓶が作った落語が、歌舞伎の舞台に


星野が訪れたのは、中村勘九郎、中村七之助による歌舞伎「廓噺山名屋浦里(さとのうわさやまなやうらざと)」の千秋楽だった。
「廓噺山名屋浦里」は、鶴瓶がタモリの発案をもとに新作落語にした「山名屋浦里」を原作にした歌舞伎。 つまり、タモリ・原案、鶴瓶・原作の歌舞伎ということだ。
だが、「タモリ」の名がクレジットされることはなかった。「名前載せたら?」と鶴瓶が何度も言ったが、「歌舞伎にタモリは似合わねえよ」と断ったという。

実はタモリは2回目の観劇だった。あまり芝居などを観に行くのが好きではないタモリが、一度観た後、鶴瓶に「もう一回観たい」と懇願したのだ。珍しいことだと思い、それに付き合って、鶴瓶も一緒に訪れていた。
二人は、体を小さくしたまま見入っていたという。星野はその様子を「同級生がニコニコしながら見ているみたいな感じなの。それがなんかすごく、本当に友達同士で来ているみたいな感じ」だったと振り返っている※1

そして、星野源は、みたび驚くことになる。
歌舞伎が終演を迎え、しばらく経っても拍手がなりやまないのだ。通常の舞台では、その拍手はカーテンコールを促すものだ。だが、歌舞伎の世界では、基本的にカーテンコールは行わない。幕が閉じればそれで終わりだ。

だが、鳴り止まない拍手に遂に異例のカーテンコールが行われたのだ。
もちろん役者たちは準備をしていない。だから衣装を脱ぎ部屋着姿の勘九郎や七之助が戸惑いながら舞台に戻ってきた。

その異例の展開に場内はさらに爆発。 割れんばかりの拍手が包み込み、スタンディングオベーションとなった。
勘九郎は困った末、「原作者」と「原案者」が来ていることを紹介した。
思わぬ展開に戸惑いながらも二人は靴を脱ぎ、歌舞伎座の花道を通り、伝統ある歌舞伎座の舞台に上ったのだ。鶴瓶は半ズボンだった。

 

アホなことを一緒にいっぱいした

鶴瓶とタモリは舞台上で、カーテンコールの挨拶に慣れない勘九郎たちをサポートするように事の経緯を説明していく。
『ブラタモリ』で吉原を訪れたタモリが、「山名屋浦里」の元になった実話を知り、それを鶴瓶に落語にして欲しいとリクエストしたこと。
その要望に答え鶴瓶が新作落語を作ったこと。
そして、その落語を聴いた中村勘九郎が歌舞伎にしたいと申し出たこと。

「本当にありがとうございました。こういう自分の考えたものとか、タモリさんが言ってくれたことがこんな風に歌舞伎になるなんて思ってなかった」

そんな風に挨拶を終えると「タモリさん、行こうか?」と促した。
するとタモリが全力で答えた。


「あ—い—」

これは、「廓噺山名屋浦里」の中で笑いどころとなっている禿(かむろ)の決めフレーズ。
場内が爆笑と拍手に包まれる中、粋に幕は閉じられた。

「70歳にして、こんなことが起きるとは思わなかったよ。ありがとう」

珍しくタモリはしみじみと鶴瓶に言ったという※2

鶴瓶は歌舞伎座の舞台の上で「どっかに勘三郎、来てるな」と思った。
思えば、この舞台は亡くなった中村勘三郎が導いたとしか思えないものだったのだ。
二人は「のりちゃん」「学さん」と本名で呼び合う“親友”だった。



もともと彼らが出会ったのは、20年以上前。東京進出後まもなく始まった『女と男 聞けば聞くほど…』(TBS)に勘三郎(当時・勘九郎)がゲスト出演したことがきっかけだった。
「子供の頃から映画館やテレビで見ていたスターで、雲の上の存在や」と思っていたが、どういうわけかウマが合った、と言う。

「アホなことを一緒に、いっぱいしました。向こうも僕のことをようわかってるから、こっちが何かやったら、いろいろ返してくれる。これが楽しくて楽しくて」※3
 
勘三郎が癌で入院する前、仲間内でパーティをした際は、ちょうどブータンのロケから帰ってきたばかりの鶴瓶は、ちょっと驚かせようと思って、ブータンの格好をして訪れ、勘三郎を喜ばせた。

そういう悪ふざけができたのも、あの人やったからです。あの人だから、おもしろいことをつきつめようという思いを、受け止めてくれたんやと思います」※3

 

落語への回帰を後押しした勘三郎

そもそも鶴瓶が落語に本格的に回帰したのは50歳を過ぎたころだった。
春風亭小朝に「古典落語」をやってほしいと請われてのことだった。その後、落語界の活性化を目指し、流派・落語団体を超えて結成された「六人の会」などに半ば巻き込まれるように参加していく中で、鶴瓶は古典落語にのめり込んでいった。

そのひとつの集大成として2007年、古典落語の名作「らくだ」を披露する全国ツアーを行った。 鶴瓶にとって「らくだ」は特別な噺だ。なぜならそれは、師匠である笑福亭松鶴の十八番だったからだ。落語家にとって師匠の十八番を演るのは特別な意味を持っている。彼に円形脱毛症が出たのもこの噺の稽古中だ。

「僕がこの噺をやることで、落語を聞いたことがないような若い人に松鶴のことを知ってほしい」※4
 
だからこそ鶴瓶は、このツアーに並々ならぬ意気込みで挑んだ。
 
そのあらわれのひとつが会場だ。
福岡の嘉穂劇場を皮切りに、京都の南座、大阪松竹座など「有形文化財級」の伝統ある8箇所の小屋で行った。
極めつけは、東京。その舞台はあの歌舞伎座だったのだ。

実は中村勘三郎は、鶴瓶が古典落語をやることに反対していた。

「あんたは、普段のとらえ方がおもしろいんだから、古典なんかやる必要がない」※5
 
それでも歌舞伎座の初日には、勘三郎も客席に訪れた。
だが、「らくだ」という師匠の“聖域”に大きなプレッシャーがあった上、歌舞伎座という歴史ある舞台には“魔物”がいた。

「高座に上がっても、アガってたんでしょう。妙に緊張し、噺に集中できないんですよ」※5
 
鶴瓶は自分の身体が自分のものじゃないような感覚を味わった。客は笑っている。けれど、なにかが違う。

「おまえ、こんなんでええのか?」
 
自問自答しながら、なんとか噺を終えた鶴瓶は、その夜、自分の不甲斐なさに悔しくて泣いた。
 
後日、鶴瓶は勘三郎に呼び出された。
もともと落語をやることを反対されていたのだ。無様な落語を見せてしまった。酷評されもうやめろと説教されるのではないか。だが、勘三郎の評価は真逆だった。

「いやぁ、ものすごくよかった」
「そんな、なんもいいことあらへんわ!」

鶴瓶は思わず声を荒げた。出来が悪かったことは鶴瓶自身がいちばんよくわかっているのだ。

「あんなにアガっている学さん、観たことがなかった」

勘三郎はそう言いながら鶴瓶を見据え続けた。

「それは歌舞伎座とか落語という伝統に敬意を持っている証拠だ」

そして力強く言った。

「あなたは古典に謙虚。だから、あなたは古典落語をやるべき人だ!」

うれしかった。そして、この人にはかなわないと鶴瓶は思った※5
それ以来、鶴瓶は稽古癖が抜けなくなったという。落語に邁進し、毎年のように落語ツアーを行い、数多くの高座に上がり続けている。

 

線香をあげにきた骨

勘三郎に背中を押され古典落語をやり続けたことが、新作落語「山名屋浦里」の誕生に繋がった。
その落語を息子の勘九郎が初めて聴いたのも「父と子のルーツを探す番組」(『テレビ未来遺産』「中村勘九郎〜親子の宿命〜」と思われる)の収録のときだった。始まって2分足らずで、すべての情景が歌舞伎のイメージとして頭のなかに浮かび、落語を聴き終わった後、歌舞伎化の許可をお願いした。

「完全にこれは父親が巡り合わせてくれたんだなと思った」※6
 
そう勘九郎が語れば、鶴瓶も同じように言う。

「すべてのりちゃんが操作してるような思いがあります」※7
 
勘三郎は、歌舞伎を見たことない人にどうやって歌舞伎を見せるかに心血を注ぎ挑戦し続けた。その意志をいまは勘九郎が継いでいる。
鶴瓶もまたそうだろう。普段、落語を見ない人に向かって高座に立ち続けている。
 
「人間はいずれ死ぬんですよ。死ぬと思うてなくても死ぬんです。志半ばでも、持っていかれる。簡単に死んでしまう。短い人生なんだから、人を好きでいたい。おもしろいことをやり続けたいんです。やり続けて、死にたいんです。勘三郎も、同じ思いだったと思います」※3
 
鶴瓶は、勘三郎が亡くなった後、自宅に線香をあげに訪れた。
勘九郎は目を疑った。
鶴瓶は骨の柄が描かれた全身タイツを着ていたのだ。

「骨が骨に挨拶しに来たよ」

そう言うと、鶴瓶は「納骨しろー」「納骨しろー」と家の前で弔いの舞いを踊った。




※1 『星野源のオールナイトニッポン』16年8月30日
※2 『日曜日のそれ』16年9月4日
※3 『週刊現代』13年1月12日
※4 『毎日が発見』07年9月号
※5 『BIG Tomorrow』11年4月号
※6 「エンタメターミナル」16年8月3日
※7 「お笑いナタリー」16年7月8日
 








鶴瓶のスケベ学|23


山口智子、緒形拳、吉永小百合がベタ惚れした偽善の役者


芸人でありながら俳優としてもドラマや映画で独特の存在感を放ち、数々の名優たちから”ベタ惚れ”の評価を受ける鶴瓶さん。初主演作であった「ディア・ドクター」に取り組む彼の姿勢から透けて見えるものは、普段の姿からは想像がつかないほどに真摯なものでした。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。


「私、ほんとうは正太夫さんと結ばれたかった。秀平ゴメンネ……」

1988年の朝の連続ドラマ小説『純ちゃんの応援歌』の収録スタジオで、ささやかな七夕祭りが開かれた。
ヒロイン「純子」を演じていたのが本作が女優デビューとなる新人だった山口智子。ドラマ上では、高嶋政宏演じる「秀平」と結ばれる。だが、山口智子が短冊に想いをしたためたのは「正太夫」。それを演じているのは笑福亭鶴瓶だった。

「個人的にも、理想の人なんです(笑)。とにかく優しくって、お話してても気分的にすごく楽。変に構えることなく、自然に接することができるんです。テレビではいつも三の線を演じてらっしゃいますが、マインドの部分はまちがいなく二の線。そんなところがとてもカッコイイ!」※1
 
山口智子は鶴瓶に“ベタ惚れ”だった



俳優という三足目のワラジ

当時の関西出身芸人にとって、全国区で世間的な知名度を得るのは、バラエティ番組よりもむしろドラマだった。
明石家さんまも、全国的に名前が広がったのは『天皇の料理番』(TBS)出演だったし、鶴瓶もこの『純ちゃんの応援歌』で、劇的に知名度を上げた。
なにしろヒロインに一目惚れして、終生彼女を慕い続ける、心優しき三枚目。準主役級のオイシイ役どころだ。
和歌山でのロケでも、地元の人からいちばん人気を集めたのが鶴瓶だった
NHKのスタッフが「他の役者さんが気の毒なほどの人気ぶり」だったと証言している。

笑福亭鶴瓶は、「俳優」として数多くの映画・ドラマに出演している。
従って現在、鶴瓶はテレビタレント、落語家、俳優の“三足の草鞋”を履いていることになる。
名脇役として脇を固めてきた彼が初めて主演したのは映画『ディア・ドクター』だ。

西川美和は最後まで主役のキャスティングを迷っていた。共演する瑛太や八千草薫らの起用が決まっても主役が決まらないままだった。
村人に慕われ、絶大な信頼を得ているが、実は医師免許を持っていないニセ医者。それに適任な役者が思い浮かばなかったのだ。
いや、実は初期段階で鶴瓶の名前が頭をよぎったという。だが、長い地方ロケが必要な映画。スケジュール的に無理だろうと諦めた。
それ以上に、「『笑福亭鶴瓶』という存在にすべて持っていかれるんじゃないかという恐怖心もあった」※2という。

ちなみに鶴瓶が聞いたところによると最終候補に残り、鶴瓶と“争った”のはAV男優の加藤鷹だったという※3
西川は、この映画の主人公に自分を投影した。映画監督として自分は“ホンモノ”とはいえないのではないかと。何がホンモノで何がニセモノなのか? 鶴瓶もまた、医師免許を持っていないニセ医者と同じように、落語家として自問自答の日々を過ごしてきた。


「落語家は免許がいらないんです。僕は噺家になってすぐにレギュラー番組を6本持ったので、本当に落語家と言えるのかどうかもわからないで、ずっとやってきた。50歳になって小朝さんと落語の会をやることになって、はじめて本気で落語と向き合ったんですよ。ほんまもんかどうか、問われているわけです」※4
 
「俳優」として映画・ドラマに出演する際、特に重視しているのが前出の朝ドラがそうであったように、現場の雰囲気作りだ。
特に初主演作となった映画『ディア・ドクター』では、監督の西川美和をして「最大の裏方」※2と言わしめた

「僕が裏方に回ったときに何ができるかを考えたら、まず村人と仲良くなろうと。スムーズに撮影するためには、ロケ地の人たちと仲良くなるのが一番やから」※2
 
『ディア・ドクター』は、多くの地元の村人がエキストラとして出演している。しかも、彼らは鶴瓶扮するニセ医者を心から慕っている。そのリアリティを出すために、鶴瓶は求められればサインを書き、声をかけられれば家にあがり、風呂にまで入って、村に溶け込んだ。いつしか、みんな鶴瓶を「先生」と呼ぶようになっていた。

偽善といえば、偽善なんですよ。だって、突き詰めれば『サインをしますから、撮影に協力してくださいね』ということですからね。でも『ディア・ドクター』に関しては、僕はそれはすごく大事やなと思ったんです」※5
 
村人たちが心から彼を好きになってくれない限り、ニセ医者と村人の関係が嘘になってしまうからだ。

 

現場づくりを大事にする大切さ


鶴瓶に現場づくりの大切さを教えてくれたのは緒形拳だった。
84年に出演したドラマ『高級コールガールの殺人』(テレビ朝日)で共演した。
緒形は鶴瓶を可愛がった。初めてのロケのとき、「おい、お茶行くぞ」と誘われ、草餅が出ると、鶴瓶はそれを3つ一気に頬張った。「バカか」と唖然とする緒形に鶴瓶は言った。

「一つ目と二つ目は旨いから食べたけど、三つ目は笑うてもらおうと思って食べた※6
 
その言葉に緒形は大いに喜び、鶴瓶を気に入った。自分の出番がないときも、朝早い鶴瓶の出番を覗きにきて、現場を盛り立ててくれた。

「それだけ、緒形さんが現場を大事にしているということですよね。演技がどうこうよりも、その現場全体の空気が良くなることって凄く大事やって、その時に僕は想いました。相手のことを思いながら絡んでいくと、芝居のことなんて分からなくても現場は楽しいんですよ。自分じゃないんですよね」※6
 
自分のことよりもまずは相手を思いやる。そのことが、現場を良くし、ひいては作品を良くするのだ。



鶴瓶が映画やドラマの仕事を受けるのは「別に役者をやるとかいう意識じゃなく、バラエティ番組の一つとして役者をやってるんだ」※6という意識だったという。

「今日は緒形拳さんと」「今日は大滝秀治さんとこんなんやってな」などと、ラジオでしゃべれる。有名なスターたちと直接仕事をして、「あの人、こんな人やで」と話したい気持ちが一番だった。
その究極の相手といえるのが吉永小百合だろう。

「あの吉永さんと一緒に映画に出るなんて、すごいことやで。今も時々振り返っては、『あれはホンマやったんかな?』って思うことがあるもん(笑)。僕もこの世界に入って長いから、そうまで思う人ってなかなかおらんのよ。まったく夢のような話や※7
 
鶴瓶と吉永小百合は3度にわたって共演している。
『母べえ』では叔父役、『おとうと』では弟役、そして吉永小百合がプロデュースした『ふしぎな岬の物語』では恋人役と、段々と役柄でも親密度が増して行っているのが、鶴瓶への信頼度のあらわれだろう。

吉永小百合は、鶴瓶をして「ガラスのケースに入ってて、夜になったらスーッと電池が切れて眠る」※8というようなイメージを抱くほどの大スター。けれど、実際に接してみると「気安くておもしろい」人だったという。
そして、いざ演技をすると毎回、その初々しさに驚かされた。たまらず、鶴瓶は吉永に直接聞いた。

「なんでそんなに初々しいんですか?」

すると、吉永は照れくさそうに言った。

私、自信がないんです※5
 
鶴瓶が自分が“ホンモノ”なのかを自問自答し続け、落語を研鑽しているように、大スターである吉永小百合でさえも問い続けている。
だから、「自分に自信がない」ことと「プロ意識を持って働く」ことはまったく矛盾するものではないと鶴瓶は言う。

 

現場のおもしろさにスケベであること

バラエティ番組やラジオで話すエピソードを作るために役者をやってるという鶴瓶の意識は微妙に変化している。

「別に話を作るためにやってるわけじゃないですよ。居心地のいい場所を選んだ結果、面白い話が生まれる」※9と。

日常において様々な「おもしろさ」で出くわす。だが、そのニュアンスは伝わりづらく、フリートークでは表現しきれないものがある。けれど、鶴瓶はそのおもしろさを表現することを諦めない。
そんなときは、そのおもしろさを表現できる場所として映画があったりする。

「だから今となってはトーク番組をやることが芝居に役立つのか、芝居をやることがトークに役立つのかわからへん。両方かもしれませんね」※10
 
『おとうと』で鶴瓶は、風来坊で問題ばかり起こし、親族から鼻つまみにされる鉄郎役を演じた。鉄郎は、ガンに冒される。

吉永小百合は、自身の弟を演じる鶴瓶に“ベタ惚れ”した
ある日、鶴瓶が風邪をひいたというと、吉永はホンモノの姉のように心配し、「これが絶対いいの!」と大根スープを作って持ってきてくれた。

「もしかして俺のこと好きなんじゃないか(って思った)。男性としてね」

それを聞いた小池栄子はすかさずツッコんだ。

「男性として? ないでしょう! 弟としてでしょ?」※11
 
もちろん役を演じただけだから、姉弟関係はニセモノだ。だが、いつしかホンモノの姉弟のような絆で結ばれたのだ。
それは、きっと現場を誰よりも大切にする鶴瓶の思いが彼女に伝わったからだろう。



監督の山田洋次から順撮りで撮ると聞いた鶴瓶は、実際に「痩せていくさま」を見せようと急激なダイエットを決意し、学生時代やっていたボクシングを再開する。

「せっかく声を掛けてもらった以上、相手を喜ばせたいと思うじゃないですか。だったら痩せる程度のことは簡単。本気を出したらなんぼでもいけますよ。せめてそういうところで、あぁ、この人、根性だけはプロやなって思ってもらいたいんです」※12
 
ダイエット中、番組で共演する中居正広からは「65キロ切らないとだめ」とからかい半分、本気半分で厳しく言われた。中居は『私は貝になりたい』で減量経験があったからだ。
そう言われると、鶴瓶は負けられない。
最終的には15キロの減量に成功した。実に40年ぶりに60キロ台にまで体重が落ちた。

「64.8キロ、中居に勝った!」

体重計に乗ってそう叫ぼうにも、エネルギーが湧いてこないほど、ギリギリの状態だった。
そんな鶴瓶を見かねて吉永は言った。

「それ以上、やせないで。わたしが太ればいいわ。そうしたらやせて見えるから」※8


  
※1 『主婦の友』88年10月号
※2 『CIRCUS』09年7月号
※3 『チマタの噺』17年1月17日
※4 『パンプキン』09年7月号
※5 『Dear Doctor』製作委員会:編『ディア・ドクター×西川美和』
※6 『週刊ポスト』16年9月2日号
※7 『an an』10年2月3日号
※8 『家の光』10年2月号 
※9 『プレジデント』09年8月3日号
※10 『週刊ポスト』16年9月30日号
※11 『チマタの噺』17年1月31日
※12 『GQ JAPAN』10年2月号









鶴瓶のスケベ学|24


ツルベ」と呼び捨てにし続ける中居正広の親愛


中居正広さんがいつも「ツルベ」と呼び捨てにするのは、彼が鶴瓶さんに本当の親しみを寄せている証だそうです。そんな中居さんの亡き父親との交流、さらに被災地での体験を通して、鶴瓶さんは芸能人として自分が目指すべき理想の姿を思い描くようになりました。
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。そんな鶴瓶さんの過剰なまでに「スケベ」な生き様へ迫る、てれびのスキマさん評伝コラムです。

「おっ、ツルベ。どうしたの?」

中居正広は、自身のラジオ番組『中居正広 ON&ON AIR』(ニッポン放送)収録中、ラジオブースに現れた人影を見つけた。

ツルベ……。もー、ダメだよぉ。みんな真面目にやってるとこなんだから、ホントに」

あえて一貫して「ツルベ」と呼び捨てにする中居。笑福亭鶴瓶はそこに“乱入”していった。
中居の執拗なツルベイジりは続く。もはやそれは“悪態”と言っていいレベルだ。

正月明けに収録された2人がMCを務める『世界仰天ニュース』で鶴瓶は正月休み中に行ったハワイの話をした。中居によるとそれが、「グダグダ」になってしまったという。

「『仰天(ニュース)』で話す時は、ラジオとか家族とか飲み友達とかに一回、“くって”からやったほうが……」

ここで言う“くる”とは中居によると、トークをするときに事前に一度、人前で話しをすることで、話の起承転結を構成しておくこと。

「待ってくれ! なんでおまえにしゃべりのことを教えてもらわなあかんねんな!」
と制した上で鶴瓶は絶叫するように言った。

「俺は“くらない派”や! くらないでここまで来たんや、45年!」※1




中居正広の鶴瓶への悪態の理由

笑福亭鶴瓶と中居正広は、『歌謡びんびんハウス』(テレビ朝日)で出会ってから、30年来の仲だ。森脇健児の結婚式の帰り、中居、草彅剛、香取慎吾とともにタクシーに同乗した際、草彅が3万円を紛失したことが発覚したことがあった。その“犯人”に仕立て上げられたのが鶴瓶。3人で散々イジり倒した。その頃から、鶴瓶への中居の態度は変わらない。

2007年には2人で『NHK紅白歌合戦』の司会を務めた。異例の男性同士の司会だった。
鶴瓶は「台本通りならやらない」「毎回違う感想を言うので秒数くれ。歌を聴いて感想を言う」という条件で引き受けた。
一方で、中居は鶴瓶の部分を含めすべてを完璧に覚えて本番に臨んだ。まさに「くる派」「くらない派」の違いだ。

『紅白』マニアの放送作家・寺坂直毅によると、そのとき、中居は常に鶴瓶の腰に手を添えていた。そして台本上、鶴瓶のパートが訪れると背中を叩いていたという※2。そのことでアドリブと台本が見事に融合した名司会となったのだ。

冒頭のラジオに鶴瓶が“乱入”したのは、中居が入院したという知らせを受けたものだった。
「中居くんがやせているよっていうから見にきたんや」と彼の体調を心配して訪れた。
それを中居流の手荒いおもてなしで出迎えたのだ。


中居の“悪態”は鶴瓶への親愛と信頼の証だ。

 

中居の父の見舞いに訪れた鶴瓶


中居正広の父・正志さんは、15年2月に、79歳で亡くなった。
鶴瓶は正志さんが亡くなる少し前、お見舞いに訪れている。

亡くなる1ヶ月ほど前にたまたま中居と松本人志が飲んでいた際、父親の様態が悪いという話題になったのが発端だ。その少し前に自身も父親が亡くなったばかりだった松本は、「なんかできることはないか?」とお見舞いを申し出たのだ。

中居の父と松本は面識がない。しかも、意識はハッキリしているがしゃべることができず筆談でコミュニケーションを取るしかない状態だった。
“気遣いの人”である中居としては、そこに松本が訪れるのは、あまりにも松本に「負担が大きい」だろうと考えた。一人に背負わせてはいけない、と。
そこで、父と面識のある鶴瓶とタモリと一緒に来てもらいみんなでワイワイしたほうがいいと思い、2人に声をかけたのだ。
もちろん、2人は快諾し、3人でお見舞いすることになったのだ。

その日、松本人志のもとに中居からショートメールが届いた。
「タモリさん、松本さん、鶴瓶の3人でお願いします」※3
なんで鶴瓶だけ呼び捨てやねん、と松本は笑った。

最初に病院に到着したのは鶴瓶だった。
鶴瓶と中居の父は、『紅白』の際に紹介され出会い、一緒にゴルフや麻雀をする仲だった。
正志さんは鶴瓶の来院に大いに喜んで、メモ帳にペンを走らせた。筆談をするためだ。そこには茶目っ気たっぷりにこう書かれていた。

「笑瓶ちゃんは?」
 
もちろん、「笑瓶」とは鶴瓶の弟子である笑福亭笑瓶のことだ。
「お父さん、笑瓶のこと知りまへんやんか」と笑う鶴瓶※4。いつだって、中居の父はそんな風に人を笑わせることが好きだったという。

そのあと、タモリが訪れた。タモリは見舞い袋をそっと手渡した。
中居が意地悪そうに鶴瓶を見る。鶴瓶はなにも持ってきていなかったのだ。

「違うがな。俺は少しでも早く身体ひとつを見せてあげないとと思ったんや……」

鶴瓶の受難は続く。
今度は松本人志が訪れた。松本は、暇つぶしと、ちょっと笑ってもらう意味を込めて、ロマンポルノの写真集など本を2冊携えてやってきた。
さらに香取慎吾もやってきて、中居と中居の父のアルバムを自作してプレゼントしたのだ。
一斉に冷たい視線が鶴瓶に向けられた。

「大人だったらなにか持ってくるだろ」

タモリにも責められ、タジタジになる鶴瓶。病室が笑いに包まれた。
鶴瓶は着ているパーカーを渡すというが、「着古しをあげるのか」などとなじられ、“泣きながら”逃げるように帰ったという※4

後日、鶴瓶は病院に笑瓶を連れて行った。
それを見て、正志さんは、手を叩いて喜んだ。
それが鶴瓶にとって、正志さんの最期だった。 ところで、中居は病床の父に家訓を書いてくれるようにせがんでいたという。
鶴瓶は、その亡骸に会いに葬儀に訪れ、感涙した。
そこには、中居の父が書いた家訓が飾られていたのだ。

「求めるな、与えよ」※4
 
それはまさに、芸能人、アイドル、SMAP、中居正広の在り方そのものだったからだ。

 

被災地を訪れた鶴瓶の確信

熊本に地震があり大きな被害が出ると、鶴瓶と中居は、岡村隆史とともにいち早く被災地に向かった。
事前に知らせてしまうと、手厚い歓迎を受けて長居せざるを得なくなってしまう。少しでも多くの場所を巡りたかったから、誰にも知らせずに訪れた。

もちろん彼らの訪問に、避難所の人たちは大喜びだった。
エコノミー症候群対策のパッチ鍼などを持ってきた鶴瓶に対し、ニンテンドーDSなどを携え、サーティーワンアイスクリームの車までも連れてきた中居は、いつものように鶴瓶に悪態をついた。

「鍼なんて、なんで持ってくるんですか」
「いや、喜ぶねん」
「サーティワンも『自分が(お金を)出した』って言えばいいじゃないですか。手柄と領収書がほしいんでしょ?」※5
 
道中はまた笑いに包まれた。

鶴瓶は1995年の阪神大震災で自らも被災している。
当時住んでいたのは、もっとも被害の大きかった西宮。鶴瓶の自宅は高台にあったため比較的被害は少なかったが半壊した。
それでも鶴瓶はすぐに「いま必要なもの」を聞き出し、毛布や紙おむつ、生理用品などを持って避難所を訪れた。
もちろん最初は喜んでくれたが、10日ほど経った頃に訪れると様子が変わっていた。

「鶴瓶さん、物はもういらないから、笑わしてくれんか?」

避難所になっている体育館には、まだ怪我して横たわっている人もいる。隣の武道場は遺体の仮安置所。そんな環境で笑わすのは「不謹慎」ではないかと逡巡した。
だから、「お笑いをということですが、そんなこといやがる方もいるでしょうから、みなさんが必要なものを言ってください」と呼びかけた。
すると、いちばん症状が重く苦しそうにしていた人が口を開いた。

「みんなが楽しみにしてるんやから笑わしたってくれ」
 
鶴瓶は覚悟を決めて話し始めた※6。
それは、震災が起きてから数日間に実際に遭遇したエピソードを連ねたアドリブの“鶴瓶噺”だった。
真っ先に反応したのは子供たちだった。鶴瓶の周りを取り囲んで、屈託なく爆笑している。
続いて、その子供たちの笑顔を見て大人たちが笑う。会場は笑いに包まれた。

その時に鶴瓶は、「リアルなことを瞬間的にしゃべる。それが落語の始まりなんちゃうか」※7と思った。 “くらない”噺が、聞いている人たちの心に響いたのだ。
感動したヤンキーたちが鶴瓶のために並んでアーチを作った。それをくぐりながら、鶴瓶は「ありがとう」と言って帰った。

「ああ、俺のやってきたことは間違いやなかった。これからも見て、感じたことを自分の噺としてしゃべっていこう※6

 

鶴瓶の考える芸能人の本懐

東日本大震災のときもいち早く鶴瓶は『家族に乾杯』(NHK総合)で以前訪れた場所に再訪問した。
会う人、会う人、おばあさんから小さな子供までもが「鶴瓶や!」と言って駆け寄り、元気になってくれた。
その姿を見て「僕を見たら喜んでくれる。そんな存在になりたかった」※8という思いをさらに強くした。
鶴瓶はアイドルグループ・ももいろクローバーZにこんな言葉を贈っている。

「震災のたびに自分が力のないことを痛感するんですけど、すべて言えるのは、むこうに行ったら『鶴瓶さん!』って寄ってきてもらえる。“すぐに分かる力”っていうのが大事なんで、マスコミは本当に大事ですよ。だから絶対にマスコミから外れたらダメですよ。
 いかにミッキーマウスに近づくかですね。ミッキーマウスって分かりやすいじゃないですか。どこへ行ってもミッキーマウスくらいの威力があったらいいなぁって思いますんで、だから僕はテレビから去らないでしょう。絶対テレビは大事なんですよ」※9
 
鶴瓶は、「求めるな、与えよ」を実践するためにテレビに出続け、顔を売る。
それこそが、鶴瓶の考える芸能人の本懐なのだ。

被災者が自分を受け入れてくれたと実感した言葉がある。それは中居正広がいつも鶴瓶にそうするように、“悪態”という形だった。かつて訪れたことのあるお寺に震災後、2ヶ月経って訪れたときだ。そこの女将さんに開口一番こう言われたのだ。

「何してたのよ、遅かったじゃない! もっと早く来てよ!」※8



 


※1 『中居正広 ON&ON AIR』17年2月4日
※2 『Dig』2011年11月18日
※3 『人志松本のすべらない話』15年7月11日
※4 『日曜日のそれ』15年5月17日
※5 『日曜日のそれ』16年5月8日
※6 『BIG Tomorrow』00年7月号
※7 『日経ビジネスアソシエ』06年4月4日号
※8 『an an』16年3月30日
※9 フジテレビNEXT『第一回 ゆく桃くる桃「笑顔ある未来」』15年12月31日









鶴瓶のスケベ学|1_10

鶴瓶のスケベ学|11_20

鶴瓶のスケベ学|21_24

 



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初回を読む
鶴瓶のスケベ学
てれびのスキマ(戸部田誠)
芸歴40年を超える大御所芸人、笑福亭鶴瓶。還暦を過ぎた今も、若手にツッコまれ、イジられ、“笑われ”続けています。しかし、落語家なのにアフロヘアでデビュー、吉本と松竹の共演NGを破った明石家さんまさんとの交流、抗議を込めて生放送で股間を...もっと読む