火曜日, 1月 12, 2016

中平卓馬












撮影中の中平(森山大道『にっぽん劇場写真帖』より)

実は先日、店主とふたりで鎌倉散策をした折に、アノ伝説のカリスマ写真家、中平卓馬氏と出くわしたのです。鎌倉に行くと、東慶寺の小林秀雄のお墓を必ず参るのですが、その参道の脇の喫茶店で休みがてら時局について語りあっておりましたところ、カメラをぶら下げた奇妙な二人組みが側を通って行きました。

一般に写真家は自分の姿を公にしたがらないもの。ファインダーのこちら側という職業意識のせいか、少なくとも写真家自身が、文化的なアイコンとして時代の前面に出てくるのは、アラーキー以降のことです。

な かでも中平卓馬は、実質数年間の活動で永遠の名声の域に達したひと。その後はランボーさながら伝説の世界に逝ってしまい、尊顔を拝する機会は写真でもまずめったにありません。私が知るのはわずかに、あの森山大道が撮影した、例の有名な中平卓馬の写真(しかも横顔)のみでありました。あれから三十余年。間に昏睡、そして逆行性健忘症を挟んでの、現在の氏の変わり果てた姿を、なぜ中平卓馬だと分かったか?それは小林詣でを欠かしたことの無い、日頃の信心の賜物だと言えましょう。

私は店主とのミーティングを急遽中断、脱兎のごとく東慶寺の参道を駆け上り、氏の腕をつかんで「中平卓馬センセイですか?」と不躾にも問うたのでした。 「そうだよ。」という答えが早いか、私の眼には、氏の首からぶら下がったペンタックスSPブラックモデルが眼に入ってきたではありませんか!それこそは中平卓馬の代名詞ともいうべき、(私も愛用する所の)時代の名器に他なりません。



「四角いフレームによって切り取られた<現実>の断片は、まずぼく自身にとって、ぼく自身が生きてゆく中での火急なる現実として立ち現れてきたカッコぬきの現実である。そしてまた新たにカメラを取り、ファインダーをのぞく時、シャッターにかけた指先にはこの生の暗闇の総体がおしかぶさっているはずである。」中平卓馬『来るべき言葉のために』

『プロヴォーク(PROVOKE)』。「思想のための挑発的資料」という扇情的なテーマを掲げ、1968年から69年というたった一年間 で活動の終止符を打った伝説的同人雑誌。森山大道(写真家)、高梨豊(写真家)、多木浩二(評論家)、岡田隆彦(詩人)を率い、中平はいわば時代の託宣を受けた巫女として、彼等を映像とことばの両面で引っ張って行った。それはたった3号で廃刊となるも、森山大道の、高梨豊の、キャリアの絶頂ともいうべき写真の数々が収められている。だが相場価格一冊10万円を下らない『プロヴォーク』で最も眼を引くのは、森山、高梨といった職業カメラマンの写真ではなく、中平の映像であり、中平の言葉に他ならない。

中平の写真に写し出されているもの、それは職業写真家の着実な視覚の積み重ねでは永遠に到達できない、まったく別角度からの時代の照射に照らし出された"光景"である。カメラによって切り取られた紛う事なき現実でありながら、同時に詩人が言う「Nirgends ohne Nicht」、認識の極限で現れる「どこでもない場所」の映像でもあった。

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雑誌『現代の眼』の編集者として写真家・東松照明と出会い、写真家になるか詩人になるかを悩み抜いた末に、東松から送られたペンタックスのブラックを手に写真家としての歩みを始めた中平。彼は詩人になることを諦めたのではない。詩人としてカメラを手にすることを決めたのだ。そこに他の写真家にはない中平の特異性と同時に悲劇があった。彼が写真家として精力的に活動していた期間、一方で彼は膨大な評論を書きまくる。映像と言語という決して相容れぬメディアの狭間にあって、どこか一点で両者が出会うはずだという確信だけが、彼を突き動かした。写真と詩、映像とことばが究極の一点で合致する場所、それこそが写真家中平卓馬が求めた<現実>であったのだ。同時にそれは、詩人が求める究極のヴィジョンのようなものでもあったろう。

彼のことばには批評家にはない写真家の眼が裏打ちされている。同時に彼の写真には、写真家の持たない詩人の眼で射抜かれている。

映像がことばを裏切り、ことばが映像を乗り越える激しい運動に身をゆだねながら、彼はカメラを手に「火急なる現実」のひとつひとつをファインダーに収めていった。後に森山が瞠目をもって語る、当時の中平卓馬の"憑かれた"姿がそこにはあった。

そんな不可能に立ち向かうドン・キ・ホーテがごとき認識上の無謀は、廃刊した『プロヴォーク』の集大成とも言うべき、写真評論集『来るべき言葉のために』で絶頂を迎える。
言語表現の極点に新たな映像の可能性を探り、現実から切り出された映像が新たな言語表現を生み出す。人間には永遠に捉えることのできない生のままの現実を前に、彼の視覚とことばは猛烈な速度で旋回する。おそらくそこには<運動>だけがあって到達<点>は存在しない。そしてその<運動>を理論上に定着させるには、言い換えれば哲学者になるには実践家・中平の神経は性急過ぎた。『来るべき言葉~』以降、彼は『プロヴォーク』での<軸>を失い、詩人と写真家という二つの自我はまるで内ゲバのように即断の他者否定を始める。次作『なぜ植物図鑑か 中平卓馬映像論集』で、彼は自己の内なる詩人を徹底的に否定しようとするのだ。

事物を事物として捉えること。私による世界の情緒化、人間化を排し、図鑑の持つ客観性にまで写真を高めること。そして一切のポエジーを排した視覚の果てに立ち現れてくる、ことばを寄せ付けない、凶暴な事物の<存在> を直視すること。この究極のリアリズムの地点に辿りつくことが、写真家としての自己の唯一の役割だと宣言するのだ。

写真家として、詩人として、ことばと映像の狭間で闘い続けた中平の、それが弁証法的な結論であった。しかし彼は、<点>を求めるのに性急な余り、<運動>を取り逃がしてしまう。すなわち、彼の忙し過ぎる言語中枢を尻目に、写真が一切撮れなくなってしまうのだ。

「事物の擬人化、世界への人間の投影を徹底して排除し、事物の思考、事物の視線によって、世界はより深く浸透されつくされねばならぬ。」中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』

僕らは事物の世界に生きているのでは決してない。事物が中平の言うように、意味の連関から解き放たれたあるがままな姿を晒すとすれば、そこは人間不在の世界か、精神の崩壊した病者の視界かのどちらかである。中平卓馬の芸術は、彼の詩情とことばとの、危うく力強い共存の上に成り立っていた。そして彼の詩人としての感情が、写真のなかに他者を含む大きなものとの交流の契機を、絶えず予感として封じ込めてきたのだ。中平は理論に純粋であろうとし、そのことがかえって彼の矛盾を支え続けることを困難にした。彼が「写真家」であるためには、ことばと映像、詩人と写真家という、決して合い交わることのない矛盾を生き ることが不可欠であったのだ。彼がその<運動>の渦中に踏みとどまることに疲れ果て、自己の内なる詩人を扼殺した時に、彼は時代とのつながりと実践上の契機をふたつとも喪失してしまう。

彼はある夜、海辺の砂浜で、自らの写真とネガのすべてを焼き払う。
何を燃やしているのかとひとに聞かれ、
「写真家だから写真を燃やすのだ。」と答える中平。
そして1977年の9月。中平は美術家アラン・ユベールを招いてのホーム・パーティーの最中に昏睡し、一切の記憶を失うのだ。


2003年10月、「中平卓馬 原点復帰」と題された一大回顧展が、横浜で開かれた。
写真がカルチャーとして浸透した今、多くの若者が会場に詰めかけ、森山大道とともに世界に名の通った中平の存在を、改めて再認識させた。

そこでホンマタカシによるドキュメンタリー映画『きわめてよいふうけい 中平卓馬の日常』も上映されたというが、私は未見である。

逆行性記憶喪失。

一時は自分の息子すら思い出せなかった中平も、その後記憶はゆるやかに回復し、今なお『素朴な写真家』として写真を取り続けている。

晴れた鎌倉の東慶寺に、ぶらりと写真を撮りに来ていた中平は、私に向かってしきりに自分の生い立ちのことを語った。

語られることはすべて私の知っていることであったが、黙って聞き続けた。
少し離れた場所にいた店主によると、私の馬鹿笑いばかりが響いてたそうだ。
私は極度に緊張すると、馬鹿笑いをする性質なのである。


中平卓馬の理論と実践。それは極めて特異な写真上の唯物論の試みであった。現代写真という写真上のラディカリズムが、時代の急進的な唯物論と呼応した響きの上に、中平卓馬という写真家の立ち位置があった。彼の錯誤は理論と芸術を同等なものと見做し、その上に立てると信じた錯誤にあったが、それは理論と実践の齟齬に悩まない当時の楽天的な左翼運動と通ずるものであった。中平はしばしば「近代」ということばを使う。なるほど「近代」と「前近代」とを分けるのは「理論」であるだろう。唯物論、構造主義、理論物理学、心理学。近代とはあらゆる無意識の領域にことばの光を当て、そこから導き出された理論を現在の世界観やシステムに適応することで成り立っている。芸術において「芸術理論」なることばが生まれたように、あらゆる活動が理論と実践とに分岐し、行動が両者の止揚状態として捉えられるようになったのはまさに近代の特徴である。

すなわち実践は理論的でなければならず、理論は実践的でなければならない。

この考え方を革命という一点に結びつけ、それによって合理的な世界が実現すると信じた唯物論は、さながら「近代」の最もラディカルな申し子であった。

ただしかし、理論が実践を覆い尽くすにはことばの歴史は余りにも浅いのだ。
人類の歴史は実践の歴史に他ならず、ことばはいまだその付け足しでしかない。

唯物論(マルキシズム)とそれを核とする運動が現実に対する影響力を失った今、そこに原因を探るとすれば、まさに理論と実践を同等なものと見なしうる、彼等の「現実軽視」こそがその要因ではなかったか。おそらくそうした理由から、彼らは革命の主体と見なす労働者と連帯を組むことができなかった。一方の側から見て、「机上の空論」との印象を拭い去ることができなかったのだ。

そこら辺に、中平が生きた60年代から70年代半ばにかけての、時代思潮の栄光と挫折がある。
芸術とは実践の積み重ね以外の何物でもない職人道だ。

これこそはあらゆる時代の本統の芸術家が辿りつく永遠の真実である。

中平卓馬は余人が考える以上に深く、「ことば」というものを信じた写真家であった。

あるいは写真家であり続けるにはことばを信じすぎたと言えるかもしれない。

芸術が実践の道である以上、ある一点でことばとの絶対背反を担う度量がいる。

しかも彼ほどその両者に純粋たろうとすれば、それは切り裂きにも等しい矛盾であるだろう。

その意味で彼の挫折は、写真家としての彼のあり方が必然的にもたらした宿命であった。
そしてことばと映像のふたつを、写真と言う枠内でこれほどまでに高く引き上げた者は他にはいないのである。


中平卓馬は昏睡して以降、その華麗な論理駆使の能力を失う。

そしてことばを失った中平は、写真家として今なお旺盛な撮影をこなしている。

そこには自らが語った「ことばを一切受け付けない」平凡な具体が、グロテスクなまでの克明さで、写し出されているのだ。

「写真は創造ではなく、記憶でもなく、ドキュメントであると、私は考える。撮影行為とは、抽象的なことではなく、常に具体的だ。単純なことを観念化して難しいものにしようとするのではなく、カメラという媒体を通して私が出会った現実がここにあ る。そして、他ならぬこの横浜で、それを外化するのは、今回が初めてである。」中平卓馬『原点復帰・横浜』
中平卓馬が己の失墜を懸けて切り開いた未知の地平。
それはいまだ引き継ぐ者の誰もいない、
写真史上における特権的な袋小路である。





中平卓馬氏とその付き人の青年。鎌倉・東慶寺にて。












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