木曜日, 9月 19, 2013

ハルカ(ハルカトミユキ)×穂村弘 |INTERVIEW

 

 

驚異を生む言葉の作り方 ハルカ(ハルカトミユキ)×穂村弘

 

インディーズシーンで話題を呼んでいる女性ユニット、ハルカトミユキが1stアルバム『シアノタイプ』でいよいよメジャーデビューを果たす。

その名前が示す通り、ボーカル、ギターで全曲の作詞を手掛けるハルカと、キーボード、コーラスのミユキによる二人組であるハルカトミユキの持ち味は、選び抜かれた鋭い言葉で人間の本質をあぶり出す歌詞と、リリカルな詩情あふれるフォーキーなメロディー。

内面から湧き出る怒りや苛立ちはパンクスのような刺々しさを感じさせるが、アウトプットはあくまでもポップであり、マスへと開かれた視点を感じさせるところが素晴らしい。いわば彼女たちのメジャー進出は、一面的な感情の共感を強制するような生ぬるい音楽への、最後通牒だと言ってもいいかもしれない。

彼女たちの魅力を様々な角度から分析していく。

主役は、音楽を奏でるよりも先に、言葉を綴り始めていたボーカル、ギターのハルカ。

インディーズで発表した2枚のEPのタイトル『虚言者が夜明けを告げる。僕達が、いつまでも黙っていると思うな。』『真夜中の言葉は青い毒になり、鈍る世界にヒヤリと刺さる。』が、共に五七五七七を基調としているように、彼女は歌人としても活動しており、今年の3月には自ら歌集『空中で平泳ぎ』も出版している。


そして、ハルカが短歌の世界へと足を踏み入れるきっかけとなったのが、今回の対談相手である歌人・穂村弘だ。1990年代のニューウェーブ短歌で知られ、エッセイから絵本の翻訳まで、幅広く活動する穂村は、はたしてハルカの歌詞をどう読み解くのか? 緊張感を伴って始まった対談は、結果的には言葉で表現を試みる者同士の、世代を超えた魂の交感となった。


 

短歌って31文字なんですけど、31文字だけじゃないんですよね。(ハルカ)

 

―ハルカさんはもともと「音楽の人」である以前に「言葉の人」で、歌集も出していますが、短歌とはどのように出会ったのですか?
ハルカ:大学1年生のときに、穂村さんの『もうおうちへかえりましょう』のページを開いて、空白の中に1行だけあるという見た目と、読んだときの衝撃で、「こんなものがあるんだ」ってびっくりしたんです。

ハルカ(ハルカトミユキ)


穂村:僕も最初に短歌を見たときは異様に感じました。今の経済原則からすると、もし本を買って白いページに1行しかなかったら、「これは損だ」となりますよね。コストパフォーマンスが悪い、と。

でも、僕はそれを見て、自分が知っている世界を支配してる原則とは違うルールがあることにショックを受けたんです。テレビやラジオでも、誰もしゃべらない10秒ってないですよね? でも僕はそれを見たら、逆に興奮すると思うんです。

―そういったある種の異様さに衝撃を受けて、その後より深く短歌にはまったのは、どういった要因が大きかったですか?
ハルカ:31文字に無理やり収めてる感じでしょうか。
31文字なんですけど、31文字だけじゃないんですよね。何も説明していないのに、書かれている言葉以上のことが書いてあるように読めたんですよ。
「これは私にとって小説や散文詩を読むよりも面白い」と思って、そこからいろんな歌集を読むようになりました。

穂村:普通の言葉って、足し算のイメージなんですよね。
でも、詩的な言語は、掛け算で、文字を読むことで生まれる情報量が全然違うんです。
だから逆に言うと、真っ白な中に1行だから読めるのであって、小説と同じだけ言葉を詰め込んじゃうと、情報量が多過ぎて読めなくなっちゃう。



「怒り」の言葉は使いますけど、「恨み」の言葉は使いたくない。(ハルカ)



―ハルカさんの中で、短歌と歌詞はどのように分けているのですか?
ハルカ:私の中では短歌も歌詞も同じような感覚ですね。歌詞を書いてるときに短歌が生まれるときもあるし、その逆もあります。ただ、歌詞の方が文字数が多い分、難しいです。「1行でいいのに」って思うのに1曲に広げないといけない難しさは、短歌を書く感覚を持っているからこそ感じます。

―穂村さんはハルカトミユキのこれまでの音楽作品と、ハルカの歌集『空中で平泳ぎ』に対してどのような印象を持たれましたか?
穂村:歌詞だけを見ると、軋むような、もがくような感じがありますけど、歌声を聴くと印象が全然違って、驚くほど透明な瞬間がありますよね。そこに強く惹きつけられました。

さきほど短歌と歌詞は同じものっておっしゃっていたけど、でも書き方は明らかに違っていますよね。
例えば、歌詞の一人称は「僕」で統一されているけど、歌集はほとんど「わたし」で、「ぼく」と「わたくし」がちらほら。「ハルカ」って本名なんですか?

ハルカ:はい、本名です。

穂村:性別がわからない名前ですよね。
短歌でも、一人称に「僕」を混ぜてくる女性は結構いるのですが、ペンネームが性別不明になってるケースがあって。
枡野浩一さんという歌人が「性別不明なペンネームは女性」という名言を残しています。

見た瞬間に「女性だ」とわかる名前だと、女性性の枠をはめられて、読み方が限定されてしまいがちなんです。
ハルカさんが女性の肉声で「僕」って歌っているのを聴いたときに惹かれたし、今日お会いしたらすごくボーイッシュな方だったので、ステージで見たらもっと衝撃がありそう。そういうバランスから、必然的な一人称だと思います。

ハルカ:使い分けてると自分で思ってなかったので……言われて今気が付きました。








―ハルカさんの歌詞には男っぽい印象があって、「僕」という一人称もそうだし、暴力的な表現が多いことも要因だと思うんですね。そのあたりに関しては、どういった考えをお持ちでしょうか?
ハルカ:いつも考えてるのは、「怒り」と「恨み」の言葉は違うということで、「怒り」の言葉は使いますけど、「恨み」の言葉は使いたくなくて。

自分の感情を追っていくと、「恨み」には対象がいて、感情に任せて「恨み」の言葉で書くほうが簡単なんですけど、その根本には「怒り」がある気がしていて、そっちを表現しなきゃいけないなと思うんです。

穂村:「恨み」だと、完全に個人的なものになりがちだけど、「怒り」だと、代弁することができますよね。
 
“プラスチック・メトロ”の中に<もしも触れれば跳ね飛ばされる ぎりぎりのところに立っている>という歌詞がありますけど、これは電車のホームのイメージですよね。

でも、彼女の肉声で聴くと、もっと大きなことを歌っているように聴こえる。
この社会の中のぎりぎりのところ、触れると跳ね飛ばされそうな何か大きなもののそばに立つ決意みたいな、そういう感じがするんです。

ハルカ:はい、そうですね。

穂村:そういう決意や大きな志とリンクするには、「恨み」じゃなくて「怒り」の周波数じゃないと太刀打ちできないというか。

あと、「恨み」の場合は原因がなければ発生しないけど、こういうタイプの「怒り」は、世界中が幸福にならないと消えないと思います。
お金持ちになって、彼氏と上手くいって、人気者になったら消えるような「怒り」は、表現としては弱いですよね。

ミュージシャンが、活動のピークで自殺したりするのは、やっぱり魂が本物なんだなって思うんですよ。そういうのを見ると「自信ないな」って思います。「俺、金持ちでモテるようになったら、怒りとかなくなっちゃうかも」って(笑)。


左から:穂村弘、ハルカ(ハルカトミユキ)


ハルカ:(笑)。

穂村:だから、今日は声をかけていただいてすごく嬉しかった反面、「この人(ハルカ)、すごく純度高そう」と思って、ちょっと来るのが怖かったんです(笑)。
年をとると、自分の純度に対して不安になるんですよ。「維持できてるのかな?」って。

ハルカ:「不安」とおっしゃいましたけど、私は穂村さんの本を読むと、穂村さんの「怒り」を感じるんです。言葉は穏やかなんですけど、「怒って書いてるな」っていうのがわかる。それは若さから来るものとは違う、言葉を書くことで磨かれていったものだと思うので、そこにすごく憧れます。

穂村:ありがとうございます。ただ「磨かれる」というのは「繰り返す」ことでもあって、芸風みたいになっちゃう怖さがあるんです。

この間ピースの又吉さんとしゃべったときも、「これが自分のキャラクターだって思うことは拒否したい」と彼が言ってて、その感じはよくわかります。

ハルカ:自分のモノマネみたいになっちゃうっていうことですよね。

穂村:そうそう。音楽にはそれがはっきり出ちゃいますよね。
今思うと、若い頃はRCサクセションやTHE BLUE HEARTSを聴いて、ものすごく残酷に見定めようとしてました。
インタビューの一問一答の回答が1つでも気に入らないと、「魂が腐った」ぐらいに思ったり(笑)。

ハルカ:怖いリスナーですね(笑)。

穂村:でも、忌野清志郎とか1個も間違えないんですよね。すごいなって、ずっと思ってました。

 

「死」に対する感受性っていうのは、表現者にとって決定的な切り札だと思うんです。(穂村)


ハルカ:穂村さんの本を読んでいると、「安易な言葉に対する怒り」がよく出てきますが、それは常に感じていることですか?

穂村:音楽や絵画は、表現の専用ツールじゃないですか?
ギターを持ち出した瞬間、絵筆を持った瞬間、その人は表現をするわけです。
でも言葉は、表現の専用ツールじゃなくて、それ以前にコミュニケーションツールだったり、日常の生活ツールだったりする。

ハルカ:生きていくための言葉ですよね。

穂村:ええ、サバイバルツール。絵や音楽がうらやましいのはそういうところで、例えば、絵を見て、「この絵って、どこまで本当ですか?」とは言われないじゃないですか。

でも、歌詞だと「この歌詞、どこまで本当にあったことですか?」って言われますよね。それにイラッと来るというか、絵画や音楽と同じように、言葉に翼を与えてはばたかせたいと夢を持って書いてるのに、地に引きずりおろされる。

「あんたは現実にしか興味がないんだ!」って言いたくなるんだけど、それは結局自分の力のなさでもあるのかなって。

ハルカ:歌詞ってすごく微妙な立ち位置にあって、コミュニケーションツールとしての言葉で書いてしまえば、わかりやすいし、共感しやすいですよね。
でも、それじゃあ全然面白くなくて。周りの人に「この部分わかりにくいから、わかりやすく変えよう」と言われると何か違うなって思うけど、かといって読んだ人が全然わからないものを書くわけにもいかないし。

穂村:さっきの<もしも触れれば跳ね飛ばされる ぎりぎりのところに立っている>っていう言葉は、「次の瞬間死ぬかもしれない」っていう意味でもありますよね。

その事実ってみんな知ってるはずなんだけど、意識すると生活できなくなるから、何となく「まあ10年は死なないだろう」とか思って毎日生きてる。

でも、人から「10年は死なない」と言われたら、「何を根拠に!」って思いますよね。
常にその二重性の狭間で生きてるんです。




穂村弘


ハルカ:わかります。

穂村:多くの人にとってお札はお金に見えますけど、「明日死ぬ」とわかった瞬間に、お札はただの紙に見えると思うんです。つまり、「明日死ぬかもしれない」という感覚で生きてる人にとってお札は単なる紙であり、やっぱり超絶的な詩人や天才的なミュージシャンは、お札が最初から紙に見える人で、そういう人が本当のクリエイターだと思う。

安定して札束に見える人は、人を感動させられないし、「死」に対する感受性というのは、表現者にとって決定的な切り札だと思うんです。

ハルカ:やっぱり、今はどうしても「死」より「生」の方向というか、生きるための言葉に共感を持たれることが多いですよね。実際そういうことを歌ってる人のほうが多いし、それに共感して聴く人も多いと思うんですけど、「そうじゃないだろう」というつもりで書いてはいます。

穂村:恋愛すると、「この幸せが終わるのが怖い」という感じが強まるじゃないですか?あれは不思議な作用だと思うんですけど、それを感じたくて恋愛したくなるのかなとも思うんですよね。
「この死の感覚が生きることの本質だよな」って、確認したいのかなって。





「私たちは言わない間にすごいことを考えてるから」みたいなところはあります。(ハルカ)


―「共感」というキーワードが出ていますが、それって世代意識とも関わってくると思うんですね。
ハルカさんは、いわゆる「ゆとり世代」と呼ばれる世代で、アーティストプロフィールには「言わない世代」という言葉も出てきています。ハルカさんはそう呼ばれることに対して、どう思っていますか?

ハルカ:「勝手に言っとけ」って感じですよね(笑)。「私たちは言わない間にすごいことを考えてるから」みたいなところはあります。

「言わない世代」に対して、「言う世代」がいるとしたら、勝手に言ってればいいと思うし、どっちが普通ってこともないですよね。

まあ、「言わない世代」だと思われてるんだったら、言ったときによりびっくりするだろうし、黙ってるからといって、怒ってないとは限らないし。





穂村:僕たちの頃は「新人類」って言われてたけど、今となっては完全に意味不明ですよね(笑)。
ハルカさんの言葉を拝見する限りでは、そういう世代のカラーみたいなのは特に感じなかったですけどね。

ハルカ:穂村さんのエッセイの中で、「若い人の短歌を読むと、自分が若かったときの感覚に比べて、虚無感とかあきらめが言葉になってる」と書かれていたのがすごく興味深くて、それは自分の世代として実感があるんです。
ただ、私がもし誰かに「ああしろ、こうしろ」って言われたらむかつくので、むしろ私が独り言のように言ってるのを聴いて、何か気づいてくれればなっていうのが一番の理想ですね。



ハルカさんみたいな書き手は、「魔女狩りにあいそうなタイプ」(笑)。(穂村)



ハルカ:この前フェスに出たんですけど、ああいう場所って踊りたい人たちが来てて、コール&レスポンスをやったり、みんなで飛び跳ねたり、そういうバンドが8割なんですね。
私たちはまったくそういう風にはならないから、「フェスには私たちみたいなバンドは必要ないのかな」とか「言葉を聴いてる人たちはいないんじゃないか」とか自分たちの立ち位置を考えさせられたんですけど、でも、一方では決してそんなことはないとも思ってて。

あの空間でも私たちの言葉を聴いてくれた人はいたと思うし、育てるなんて偉そうなことは言えないですけど、そこに立ち続けなくちゃいけないのかなと思いました。

―今の日本のロックフェスの現場って、かなり偏りがありますよね。
音楽の楽しみ方って本来自由なものなのに、「みんなと一緒に同じことをする」という楽しみ方しかないような感じを受けるんです。
一番わかりやすいのが、曲に合わせてみんなで手を前後に振る動きで、もちろんそれをしなくちゃいけないルールなんてないんだけど、それをするのが当然のことのようになっていて。
ハルカ:楽屋である人が「みんなを固まらせちゃうようなロックスターがいなくなっちゃった」と言ってて、それがショックだったんですよね。
第一声で聴いた人を固まらせちゃうような、そういう人がいなくちゃいけないんだなって思いました。







穂村:表現には「共感=シンパシー」と「驚異=ワンダー」があって、詩や音楽の本質はワンダーだと思うんだけど、今は圧倒的にシンパシーの時代ですよね。少なくとも僕が青春期の頃までは、「誰も見たことがないものを見たい」とか、「自分がそれを最初にやる」というようなワンダーの価値が大きかったと思うんだけど、それがここまで値崩れしたのがショックで。
「見たことがない、聴いたことがない」ものへの憧れって、どこに行っちゃったのかなって。

―なぜここまで値崩れしてしまったんだと思われますか?

穂村:1つは社会が厳しくなったこと。
同調圧力が強くなって、「変なおじさん」みたいな人の存在が許されない。
僕みたいな人が昼間に住宅地の公園に行くと、お母さんたちがみんな警戒して、「いるだけで罪」みたいな(笑)。
そういう厳しさと、シンパシーの強制力はリンクしてると思います。今は逸脱した魂の居場所がない。

―今の話を聞いていて、渋谷でトウモロコシにスリッパをはかせて散歩させてるおじさんが話題になってたのを思い出しました……。

穂村:隕石が地球に突っ込んだりして、社会の価値観が激変したら、「トウモロコシを散歩させてたのは、こういうことだったんだ!」って理解される可能性もあるかもしれなくて、僕らの仕事も基本は隕石と同じ役割なんですよね。

散文は現在を補強するけど、韻文は未来の価値観の提示なんです。

ただ、それって今はまだ証明できないから、すごくわかりづらい。そこでリトマス紙的に大事なのは、若い人の反応で、なぜかというと、若者は生きている未来だから。

「何かわかんないけど、これいい」というのは、未来を感じ取る感覚ですよね。




―これまでハルカトミユキとして2枚のEPをリリースする中で、同世代の人や、ハルカさんよりも若い人からのリアクションはいかがですか?

ハルカ:私は絶対に反応してくれる人がいると信じて、共感や生きるための言葉に対してちょっと違った角度から球を投げたんですけど、思った通りの反応があったので嬉しかったし、これがどんどん広がれば間違いないなって思います。今はまだ共感勢力の方が強くて戦ってますけどね(笑)。

穂村:共感性の勢力に対して、ハルカさんみたいな書き手は、「魔女狩りにあいそうなタイプ」ですよね(笑)。
椎名林檎にしても、Coccoにしても、リスペクトされる日本の女性アーティストって、「魔女狩りにあいそうなタイプ」が多いのですが、そういう魂の存在感は、例えば、戦時中に投獄されたような詩人や俳人を見ても明らかで。

つまり、そういう人たちが提示する未来の価値観は、戦争をやりたいという現在の世界にとって危険だと思われたわけですよね。未来の言葉を使える人たちというのは、やっぱり光ってるんですよ。




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